多少前の話になってしまうが、先週末は知り合いが主催するショートムービーの映画祭に行ってきた。
撮影の手伝いの件やら何やらもあり、そのイベントの方も自宅の近所で準備をするというので少し手伝わせて貰った。映画の間に挟むアイキャッチの撮影を数本撮るのを手伝い、そして何故か一本主演として出させて貰った。本番で確認したが、これが素人丸出しでひどく恥ずかしい、恥ずかしいと言うよりも単純に出来として甘いモノになってしまっている。この道で仕事している人は凄い、素人がカメラ、いやキャメラの前に立つなんて失礼な事なんだと力強く思った。
その後、多少なりとも関わったという事でスタッフという肩書きを貰い、スタッフとして打ち上げにも参加させてもらう。おかげで非常に多くの人とお話をする事が出来た。誰もかれもが映像を撮る事、映る事に情熱を傾け続けてきた人たちでいちいちカッコイイ。主演の女優さん3人ともお話しできたが、非常にいい人であり、それでいて画面を通してみるとそれに品や艶など多くの要素を盛り込んでくる、打ち上げでもプロモーション・売り込みを怠らない様子、プロの凄さというものを痛感した。
元々自分が酒の席で怯まない、社交的になれるタイプの人間なおかげでいろんな人にかまってもらえ、素敵なお話もたくさん聞けた。ただ、そんな他人の素敵な話を聞いてしまうとその後思うのは『じゃあ返って自分はどうなのか?』という事になってしまう。特にこんな情熱を固めた人たちと向き合うとなおさらに。
今回の打ち上げで一番話をしたのは主催の人の奥さんだったんだがその人が40過ぎだというのにとにかく若い。感性というか何というか。人の作品の意図を聞いては感心し、または自分の意見もぶつけたりしながら、そして自分の夢を語る。そして話の節々に挟む『あぁ楽しい』。
曰くその人は自分が40を過ぎてから人生が楽しくて仕方がないらしい。子供の頃から、いわゆる「綺麗な身のままで死にたい、醜態晒してまで生に執着はない」的なタイプの人間で先生友人含めよく困らせていたらしい。それが今は。とにかくいろんなものが見えてくるらしい。ただ、どんな感じなんですか?と聞いても「子供には言わない、知りたければ生きなさい」としか答えてくれない。と、こんな人にと酒を飲みながらお話ししてると最後に言われたセリフがあって、
『あなたは初めてあったけど凄いイイ男ね、ホント惜しいわ』
「いや、それ褒めてるんですか?」
『イイ男なんだから頑張ってカッコイイ男になりなさいよ』
イイ男で終わっているのがもったいないと思ったらしい。受け答えとかの感じの良さなど見てもとてもイイ男なのに、ただ、それだけで、それに夢だとか目標だとかそういった物をもって頑張る様なカッコ良さがまだ無い、それがもったいないという事らしい。初めて会ったのに何分かった様な口を…と思ってもいいところだったが、だがこんな業界に長い事身を置いて、多くのカッコイイ人たちを見てきた人の言葉は重い。現にこの飲みの場に「集まってきた」多くのカッコイイ人たちを見ればその説得力は間違いないと思ってしまう。そして、それが実際に急所である自分にはその全てが突き刺さる。
頂いた一言の説得力、そしてそれがダイレクトに自身に関わる事だから、結構思うところはあった。そもそも今の状況に違和感を感じているのは何より本人で。あれしてみたいコレしてみたい、興味はあるのに。その割にはその足かせにしかなっていない今まで自分が積み上げてきた「積み木」。今まで何やってきたんだろう。
意味もなく、意味のないモノを積んできた様な自分。これから積み上げる積み木は意味のあるモノなのだろうか?そして積み上げた先に何があるのか?
出来れば、あの人みたいに40過ぎてもまだ積みたい積み木がたくさんある人間でいたいと思う。