清水戦。
ホットラインで振り返ってみると、前田治は案の定「取れる時に点を決めなかったから…」とお決まりのフレーズを連呼していた。前半のあの時に、攻め続けたあの時に、点を取っていればこんな事にはならなかったと。いつもの様に、そう言い切った。
その意見に対して、自分としては素直に、「いや、守りきれなかった事が問題でしょ?」と。真逆の感想を現地で強く持ち、その意見に激しい違和感を感じていた。
こういった試合に対して「あの時、点が取れていれば」と思うのか「あの時、守り切れていれば」と思うのか。そのどちらであるのかのジャッジは、本来は内容を精査した上でのケース・バイ・ケースであるべきだが、精査する上での見方・基準は、そこからもっと突っ込んだ、サッカーに対する根本の「思想」が決める。
日本の場合、こう言った時には得てして「決定機を決めなかったから」などといった論調になる。今回の清水戦だけでなくて、日本におけるサッカーの試合ほぼ全てに対して。日本代表の試合を見ればより明らかだ。
こういった展開の試合ごとに溢れるこれらの意見を見るごとに、つくづく日本ってのはこんなメンタリティを内包している国なんだろうな、と思う。「日本に守備の文化がない」と言ったのはトルシエだけど、本意とは違う形で引用させて貰うならば、守備の文化がないと言い切ったトルシエの感覚が今ならば良く分かる。日本人ってのが、潜在的にオフェンシブなのかディフェンシブなのかと問われれば、オレは間違いなくオフェンシブだと答える。ならば、そんな日本人からストライカーが生まれない要因は果たしてどこに…
というのはあまりに脱線なので、この辺で止めておく。「守りきれなかった」という感覚は珍しいらしいので、それに則して簡単に振り返ってみる。
後半の東京の内容は、確実に「失点」向かっていく内容であった。得点場面以外ではボールに触る事もなかった、貢献度の少なすぎるブルーノのプレー。それゆえに1ボランチ気味で前半から走り回っていた浅利。簡単に振られるゆえに上下から逆サイドにまでカバーに走った羽生。単純なロングボールに何度も走らされスタミナの切れた2トップ。内容は確実に悪く、「何故交代策を使わない」と動かない城福監督に現地でやきもきしていた。
後半アタマからの劣勢を見ていれば(さらに前半からのブルーノの機能不全の伏線をしっかり感じ取っていれば)あれだけタイミングの遅い交代策は取らないはず。ブルーノの機能不全の箇所を、早々にてこ入れすべきだった。ボランチの修正が最重要だったと俺も思ってたから、藤山のボランチも、モニのプレーぶりも失点に直接の問題には思えない。佐原の退場も、そりゃあ困るし次節を思えば不用意だったが、直接の勝敗には影響はさほど無かったかと。他の誰かがどうなろうとも、失点へと向けた強い流れは既に確実にあったし、そこに手を加えるにはタイミングは全体的に既に遅かった。実際に引き分けてみれば、妥当な結果。ならばそう思わせただけの、内容の劣勢部分を修正する、ギリギリの逃げ切り采配が見たかったのが正直なところ。
この試合で何故自分が「あの時守り切れていれば」と思ったか?それは前半に決定機をもう一つ決め2-0で終わろうとも、それくらいならばひっくり返されてしまわれそうな、東京の機能不全が空気として充満していたから。点を取っていれば「勝てたかもしれない」が、守りきっていれば「勝てた」。ならば見るべきは守備であり、問題点を指摘するならば守備であり、修正が出来なかった采配であるべき。
攻撃とはそういうものであり、守備とはそういうものであると思う。
これが自分の、根本に流れる「思想」なのかな。