スパイラルのその先は… GWのFC東京と清水戦ちょいプレビュー

現場主義を謳う自分でも、現実的には諸々の事情によってそれが叶わないことは多々あるもので。面白そうなものがバッティングしてしまった時に、どちらを選ぶか?ってのも例えばそうだし、時間的もしくは距離的に無理なこともある。なにより金銭的な事情。まぁほぼほぼはこれが理由なわけだけど。

GWなのに、ガンバ戦と広島戦はTV視聴で確認。

ガンバ戦を見た後にこみ上げてきた怒りやら悲しさやら苦しさやらったら無かった。ネガティブな気持ちを抑えることに必死な自分がいた。梶山の復帰に、後半勝負を構える東京は、結果ガンバの(ウチと同じ様な)苦し紛れの索に見事にハマる事に。それも、この試合のみ特別どうだって事ではなく、ここまでの悪い流れを、ただ正しく表しただけの試合。

その後の広島戦。梶山をスタートから使えたこの試合は、推移は一見ガンバ戦の悪夢再び…を予感するもの。ただ実際は、結果こそ同じく完敗だったものの、内容は「ただ梶山がいただけ」でこれほどに変わるのか?と思わされるものだった。

今までの悶々としたチーム内容の集大成的だったガンバ戦と、内容がガラリと変わった広島戦。しかし、どちらも結果は負け。そうなると、広島戦の方のが、問題としてはややこしそうに見えてくる。


ここ最近、いろんな情報を処理しきれずに脳内でもやもやすることが多くて。その中で例えば「サッカーの本質」って何ぞや?って事をよく考える。

この問に対する模範解答は恐らく、ゴールを決める事こそがサッカーの本質であり、ゴールのためのパス、ゴールを守るための守備、全てはゴールこそが本質だと、そんな感じになるのかなと。それは自分も同意。ゴールを奪いあう競技なのだから。

けど、それはルール上の目的なだけだとも思う。つまり、なんて言うのかな…サッカーというゲームにおいて、目的がそれであるのは最前提として明らかな中で、それを「忘れるな」「思い出せ」と改めて注意しなければならない事態ってのが実際にいろんなピッチの上で起きていて。その目的をぼやけさせている事態を生んでいる要因、そこにこそサッカーの本質ってのがある気がして。「要因」にこそ本質が?うーん。

システム的、戦術的な意味での本質もしくは要因。

ゴールの位置って、何であそこなんですかね?ピッチの両端に、真ん中に二つ。このゴールの位置に、自分はサッカーの本質があるような気が。最近よく思うわけです。

例えば。マガだかダイだかに連載されてる杉山茂樹の記事を今週読んで。お得意のシステム論の中でも、今回は「ピッチにマス目を引いてみよう」って話題。4-4-2だの4-1-2-3だのと、複雑な昨今のシステム論だが、分かりやすく見るために、ピッチにマス目を引いてみようと。4バックだったら4分割され、3バックだと3分割され、それぞれにひとりずつ人間を配置して、選手が見るエリアをハッキリさせてみる。そうすると、システムってこういう事かと分かりやすいじゃないですか?ってのが、ざっくりとした内容かな。

で、これって明らかにおかしいじゃないですか。真ん中にはゴールがあるんですよ?

エリアを等しく3分割させたところで、そのエリアの価値まで等しくなるわけじゃないでしょだって。右サイドより、左サイドより、何より重要なのは中央でしょ。何故ならば、中央にはゴールがあるのだから。サイドにはゴールは無い。最悪、サイドはどうでもいいけど中央はやられてはいけない。エリアの価値ってのはこういう事。そしてそれは今も昔も、恐らくこれからも変わらない。

ゴールの後ろのエリアを使えない、ってのも恐らく大きな意味を持っている。バスケやアイスホッケーなど、ゴール裏エリアを使える事が、例えば守備する側としても違う難しさを生んでいる。その点でサッカーでは、ゴールを守るキーパーはゲーム上でゴール裏を振り返る必要は殆ど無い。ゴール裏のケアはクラブフロントの仕事だ。

ピッチ上は360度の自由空間だ。どちらにパスしてもいいし、どちらにドリブルしてもいい。サッカーは自由だ。ハーフライン上なんてまさにそうだろう。360度を駆使して、相手を食いつかせ、相手をいなし、主導権を握る。ベクトルの向きは四方八方を向いている。

しかしそれは、ゴールに近づくにつれ制約が増していく。深くにボールを運ぶほどに「ゴールを狙わなければならなくなる」。自由は一気に減り、ベクトル方向は矢印一本のみで示せる状況になってくる。それは味方も敵も周知のことだ。だからこそ、難しくなる。自由も選択肢も減るのだから。そしてその矢印方向を決めたのは、ゴールの位置がそうさせたと言えるだろう。


内容的に迷路に迷っていますが(笑)何が言いたいか?ってのもしっかりまとめて説明出来なくて恐縮なんですけど。

自分は元々、日本代表などでよく言われる「引いた相手をどう崩すか?」って課題に常々不満を抱いていて。つまり、その言葉のニュアンスに潜む「引いた相手が出てきた場合に」感というか「引いてない相手だと点が取れるのに」感、そのニュアンスがおかしいだろう?って思うわけです。だって、相手が引くのは当たり前じゃないですか?ゴールを守りたいんだから。もっと言えば、昨今はしっかり引いてブロック敷く守備が一般化してきてるわけで。いわば今や戦う相手全てが「引いた相手」やろ!と。それなのに「引いた相手をどう…」なんて言い方は、相手を見てない考え方だなと。

あと、「残るはアタッキングサードのみ」「フィニッシュの精度のみ」って言い方も好きじゃない。ビルドアップは出来てるのに、フィニッシュが…ってやつ。いや自分もよく使うんだけど(笑)でも、さっきの「ゴールの位置」「ベクトル方向の限定」を踏まえて難易度を考えると、「あとは〇〇のみ」だなんて物言いではダメだろうと思うわけです。ゴールに向けて、パスが10本かかるとしたら、自由度が大きい最初の7本と、自由度が狭い最後の3本の難易度は、等しいかもしくは後者の方が難しいのでは?と。


これまでの東京が、フィニッシュまでの行程が望むレベルに達した試合だろうとそうでなかろうと、フィニッシュが問題だったことは明らかな話。ここ最近の流れで気をつけないとと痛感するのは、むしろ行程がうまく進んだ時の見方。「あとは〇〇のみ」のパターンの時。どうしても、「のみ」に込められてる、フィニッシュを甘く見てはいないか?ってニュアンスが鼻につくのです。いや、自分も思っちゃうし言っちゃうんですけどね。繰り返しますが。

そうも難しく、気を引き締めてかからねば、という見方がいかに正しいものかを理屈付けする部分。それがゴールの位置問題であり、システム・戦術をややこしくしている「要因」「現代サッカーの本質」なのではなかろうか?

そんなこと。あれでもないこれでもないと。まとまらないままに、吐き出してみますが。うん、もっと口に出さないと脳内でもまとまらないだろうなぁ。


それに、ぶつかった仙台戦と、それを越えれた山形戦。

あぁ話が脱線しすぎて構成がめちゃくちゃだ。仙台戦も山形戦も、もっとしっかりと、ざっとなぞりたかったのに!


ってことで、清水戦です。

小平での様子だと、まずはヨンセンにどう立ち向かうか?がポイント。ヨンセンに勝とうだなんて、思うだけ無駄なので(笑)狙いとしてヨンセン後をどうすべきかが徹底されてたように思います。誰が拾うか?拾われたらどうするか?それらの「ヨンセン後の予測」のために、誰をヨンセンに捨て駒としてぶつけるか?それが予定通りいけなかった時にどうするか?ここをコミュニケーションで詰めてましたね。

そして、4-1-2-3の対処。3トップのウイングは当然高い位置を取るわけで。位置取りとして「長友が行くには前過ぎて、ナオが行くには後ろ過ぎる位置」を相手は狙う。長友が行けば裏が危ないし、ナオが行けばブロックとして下がりすぎになってしまう。さて、そういった相手にどう応対するか?誰が行って、周りはどう補完するか?この2点が清水対策としてのポイントとして入念に打合せしてましたね。

そしてこの試合でももちろん、見ないに越したことはない「なりふり構わないシステム」は準備されてます。結構無茶な形を考えてるっぽいですが、実現するならば(してしまうならば)注目は松下。『左足クロス』の狙い・冴えは素晴らしいですよ。それに合わせる選手は…

首位相手の大一番。だけど「2分8敗の壁」に当てはめるべきなのかどうなのか微妙な(笑)清水戦。「清水が今年強いだって?ホントかよぉ?」と半信半疑で味スタに向かう東京サポも多いでしょう(もしくはオレだけですが)けど強いんでしょうね清水は。それとは別として、我らの状況もあって、やっぱ燃えてる自分のが強いんです。

あしたは、前を向ける「結果」を。不自由をブチ破る勇気を。声枯らして、応援しましょ!