元々自分は、クラブがフットボールフィロソフィーを制定することに意味を感じてない側の人間ではあった。
その理由の一つとしては「結局、フットボールフィロソフィーを自由に選ばせたら、大体どのクラブも同じようなことを目指しがち」な事のつまらなさがある。
攻撃的。アグレッシブ。主導権。ボール支配。打ち勝つ。美しい。楽しい。トモダチ。
大凡のどのクラブもが、これらを選びがちだろう。そんな代物をわざわざ定める意味合いなんて無いでしょうと。
ただ、今までは「中身に対するつまらなさ」の話だけだったのが、最近はそれよりももう一段手前の話というか、つまりフットボールフィロソフィーを制定すること自体が意味がない、むしろ邪魔すぎて大惨事になっているクラブが増えつつあるのでは?とまで思い始めてきた。
フットボールフィロソフィーとやらを制定したがるJクラブを多く見かけるようになったのは偶然ではない。フットボールフィロソフィーの制定を奨励しているのは、他でもないJリーグだ。
Jリーグは近年、Jクラブの経営力強化のために"クラブ経営ガイド"を作成発行している。
その中で「クラブ経営の原理原則」として、Jクラブにフットボールフィロソフィーの制定を求めている。
クラブの成長に合わせたトップチームやアカデミーのフットボールフィロソフィーを構築し、監督やスカッドの編成等、目指すサッカーのスタイルに応じた体制を整備、ファン・サポーターにも共有・理解を促進する
P44
https://aboutj.jleague.jp/corporate/assets/pdf/club_guide/jclub_guide-2024.pdf
この考え方は、確かに世間一般的には正解扱いとされているだろう。実際サポーターも、クラブに対してフットボールフィロソフィーと、それを軸にした一貫性のある強化プランを求めがちだ。
その結果、今年のシーズン終盤恒例お気持ち表明では、フットボールフィロソフィーに対する言及・決意のオンパレードとなった。
Q. F・マリノスのサッカーでは、アタッキングフットボールというものがあると思います。今後、どのようなサッカーを目指していくのか?アタッキングフットボールという言葉にとらわれすぎていないか?
アタッキングフットボールをもう一度ブラッシュアップしている。それをやるなかで、F・マリノスのアタッキングフットボールとはこれだというものをチーム統括のなかで考えている。それらを踏まえて、来シーズンにつなげたいと思う。
Q. そこが今シーズンうまく打ち出せていなかった?
監督のスタイルとクラブが考えるスタイルがどの次元で融合するかというところですが、そこが試合の結果にうまくつながらなかったと思います。
https://www.f-marinos.com/tricolore_plus/article/1365
Q)細かくパスをつなぐアルビらしいサッカーは?
〈寺川能人強化本部長〉
「そのサッカーをこだわってきて、やってきたんですけど、こだわり過ぎて自分たちが少しうまくいかない状況もシーズンを通してあったと思う。薄れてきたと言われれば、薄れてきたかもしれない。そこは合わせていかないと、そればかりこだわって勝てるそんな甘い世界ではない」
https://news.ntv.co.jp/n/teny/category/sports/te26f2c50512c44f35bfe0c0e15db2a8c8
今シーズン残り3試合、フットボールフィロソフィーである「走る、闘う、規律を守る。その笑顔のために。」を体現すべく、どんな状況であっても勝利を目指して戦うことはもちろん、コンサドーレファミリーに栄光を届けられるよう、チーム一丸となり全力で戦い抜きます。
https://www.consadole-sapporo.jp/news/2025/11/12265/
――早川監督はチーム始動初期もキャンプでもそういう発信をしていたのはご存知だと思います。それでも体現できていないことに対する受け止めはいかがですか。
クラブのフィロソフィーを浸透させるのはそんなに簡単な話ではない、というのはすごく思っています。選手も指導者もそれぞれバックボーンが違うので、大切にしているものや信念、プレースタイルなどが違います。
それをどう山雅のカラーに染めていくか。それは選手の編成も含めて非常に大事なポイントだと思っています。決して今の選手が良い悪いという話ではなくて、「山雅らしいサッカー哲学を表現するにはどういう組織であるべきか」はじっくり考えなければいけないポイントだと思っています。
ただ今は、早急に目の前の試合にどうやって勝つかが一番大事だと思っています。
https://shinshu-sports.jp/articles/30823
フットボールフィロソフィーを信じてやまない人たち、なのか。もしくは雁字搦めに縛られている人たち、なのか…
確かにフットボールフィロソフィーは、おいそれと簡単に引っ込めることも、ブレさせる事も許されない代物だ。何故ならばフィロソフィーなのだから。一度決めたなら、疑念は捨てて信心深く、フットボールフィロソフィー道を突き詰めなければならない。
その位置づけの「重すぎ」さが、むしろ様々な点で大きく邪魔をしてしまっているのではないだろうか。
- 外的要因として、サッカーという競技の変化・進化についていけない
- 内的要因として、選手・監督・スタッフの入れ替わりが激しい中で中期的な一貫性はそもそも望めない
- フィロソフィーと結果責任を切り離すことが現実的に不可能
最後の3.について説明するためにクラブ経営ガイドに戻ると、最新の2024年版ではこのフットボールフィロソフィーが下記のようなポンチ絵で表現されている。

クラブとして揺るがないゲノムを表現するものとしてクラブフィロソフィーがあり、その直下に「クラブフィロソフィーを基にして作られた」フットボールフィロソフィーが位置する。もちろんこれも、クラブを構成するゲノムの一部とされる。
そして注目は、中期目標以下の階層でPDCAが回されていること。つまり、フットボールフィロソフィーは結果責任からは切り離された存在と位置づけられている。
これはパーパス経営的な観点では、結果に左右されない「フィロソフィー」なのだから確かに正しいかもしれない。
けど実際は、フィロソフィーを管理する人(社長もしくはフットボール部門を統括するGM等)が、フィロソフィーを軸として監督・選手を揃えて、シーズンの結果を求めていくことになる。そんな「フットボールフィロソフィーを体現する(はずの)」監督・選手が結果を出せなかった場合にどうなってしまうか?フットボールフィロソフィー自体に嫌疑がかけられるのは自然な流れだし、社長・GMは只でさえ任命責任があるのに、フィロソフィー管理者としての責任もダブルで発生してしまう。
そうなると、フィロソフィーが結果責任から逃れることなんて不可能なのでは?となれば、果たしてこの図自体がそもそも成立しているのかすら疑わしく思えてしまう。
それで言うと実は、クラブ経営ガイドの1つ古いバージョンである2022版には、このフットボールフィロソフィーのくだりは書かれていなかったりする。

成程これであれば、一般的なパーパス経営観点にほぼ同じだし腑に落ちる。それが最新の2024年版になると、急にフットボールフィロソフィーなるものが変な位置に爆誕してしまった。
パーパス経営にフットボールフィロソフィーを組み込んだ、この24年版は全く成立してないように思うのだが…この辺、パーパス経営とサッカーを沁みて熟知するスーパーエリート様に是非、訂正解説をお願いしたいところである。
フットボールフィロソフィーが、競技の急激な変化・進化に関係なく、中期的に正しい内容として在り続けるのも、一貫した人的編成で在り続ける事も激ムズな令和でありながら、それでいてフィロソフィーが結果を中期的に得ていくための手段として使われてしまうが故に結果責任から逃れる事ができないというシガラミ。
「フットボールフィロソフィーによってクラブのアイデンティティが在り続けられるのならば、結果なんて要らないんですよ!!」
そんな脆弱なユートピアが、昇降格制度によって容赦なく粉砕された結果が、この『お気持ちの死屍累々たち』ではないだろうか。
そういう意味では、自分は松本山雅の小澤修一社長コメントが、一番現実に直面した感想を率直に語ってくれていると思った。いや、Jリーグのクラブ経営ガイドに書いてあったのに、全然違うやんけ!とww
勿論それでも、正しい現実認識があったとて、その上で手を打って結果を残せなければ無能社長の烙印を変わらず押されてしまうのだから、Jクラブ社長の仕事とは大変だなと思うばかりである。
ここまでの懸念を全てカバーした、完璧なフットボールフィロソフィーを制定しようとすると、その中身はだいぶ根源的・抽象的な代物とせざるを得ないだろう。「元気」とか、「交通事故を起こさない」とか、「フランス行きの飛行機で変な画像を眺めない」とか。
となると、もう形骸化に一直線。だったらもう、フットボールフィロソフィーなんて要らないのでは?っていうお話。
『いや、そんな事はない!24年版経営ガイドの通り、フィロソフィーと結果を完全に切り離してしまえばいいんだ!!これが俺達のユートピアだ!!!』
出来るわけ無いでしょ…そんなふうに考えていた時期が、俺にもありました。出来るんですよ、コレが。正確に言うと、もうすぐ成功しそうなんですよ。
FC東京のGMとしてフットボール部門を率いている、小原光城氏。
このお方、今シーズンFC東京が戦っていくにあたって、目標を「クラブ内では定めているが、それをサポーターに向けて公表はしない」というウルトラEをぶちかましているんですよ!
皆さんご存知の通り、今シーズンのFC東京は結構ちゃんと降格危機に瀕しましたが、その際のインタビューでも改めて「目標は下方修正する、けどサポーターに向けては公表しない」と改めて抑え直す徹底ぶり。
百歩譲って「目標を設定しない」であれは馬鹿だなぁって話ですが、「クラブ内では定めているが、それをサポーターに向けて公表はしない」は馬鹿を超えて邪悪だろうと、自分は思っていました。
けどそれも、ユートピアを造るためには仕方なかったんや!目標を公表してないから、お気持ちを表明する必要も無し!やったね!政教分離!
これ、このまま味スタでFC東京サポーターから特に何も言われずに逃げ切れたら、恐らくJリーグの歴史上初の快挙になるんじゃないですかね。
夢のパラダイスが爆誕するのか、もしくは普通にちゃんとサポーターから文句が出て「(概念としての)フットボール」がきちんと機能されるのか。最終節、果たしてどうなるのか?
いやぁ、消化試合なんてものはこの世に存在しないんですよねぇ。
いくつかフォローを付け足します。
まず、現場の監督・選手レベルでは、集団としての十分な規律を持つためにも、方針や一貫性は必須だと思います。それは言わば「監督のフットボールフィロソフィー」とでも言えるでしょうか。今回の自分の意見は、クラブが「監督のフットボールフィロソフィーを実現すること」を全力でサポートする必要があるだけでしかなくて、それがクラブのフットボールフィロソフィーとイコールである必要はまるで無いですよ、という話。
あとアカデミー単体レベルでは、クラブがフットボールフィロソフィーを掲げることは成立すると思います。内的要因として前述した「選手・スタッフ・監督の流動性」が、アカデミーであれば限りなく限定的な影響で済むというのがひとつ。もう一つは、育成年代なので選手自身にフットボールフィロソフィーを目指した変化・成長が期待できるから。有望選手のリクルーティングにも大きく影響を得られるのもあるしで、むしろ必要なくらいかもしれません。
ただ、トップとアカデミーをフットボールフィロソフィーで「一貫させる」ことは、それぞれの時間軸が違いすぎて不可能だと思う。もしくは、トップ→アカデミーのトップダウンは不可能で、逆にアカデミー→トップのボトムアップ一方通行しか成立しない。もっと言うと、例えばトップが新しく何か別のスタイルにチャレンジしようとしたとしても、その選択肢は「アカデミーのフィロソフィーに縛られた選択肢」しか取り得ないと思う。
と、ここまでウダウダとフィロソフィーについて言ってきましたが…最後に。
自分は浅いドルヲタでもありますが、宮本佳林さんの座右の銘がものすごく好きです。
「とことんやれば勝手に自分らしくなる」
フィロソフィーって、決めるものでも、従うものでもなく、とことんやれば勝手に滲み出てくるものではないでしょうか。以上おしまい。