偶然性を論理的に ウィガン-マンチェスター・U

中の人がこよなく愛する漫画『ファンタジスタ』その中でも、作品中でも重要なテーマの一つである「ファンタジスタを使いこなせ!」のくだりが大好きで。以下11巻より抜粋。

的確にボールをさばき、リズムを作り…ゲームを作る。ファンタジスタのいないチームはあっても、レジスタのいないチームは無い!
(中略)
ロジカルにゲームを運ぼうとする"レジスタ"にとって、思いも寄らぬプレーをする"ファンタジスタ"はその計算を狂わせかねない存在だ
(しかしロジカルな戦術だけでは相手にも読まれてしまいますよ)
君の言う通りだ。守る側にしてみても、規則正しい攻撃は予測しやすい。だからこそ、その予測を覆すプログラムが必要なのだよ…アンドレア・ファルコーニは偶然性を持ったファンタジスタでさえ、彼のロジカルなプログラムの中に組み入れている!!彼こそ、「感覚を計算に置換できる」まさに新世代のレジスタ!!

試合を見る者、批評をしてみる者として、この「感覚を計算に置換する」というのは非常に感じるところがあります。
「運」だとか「流れ」だとか、っていうのは、恐らくこの先どうやったって存在を証明できるものでもないけれど、しかし、ソレはやはり確実に存在しているとしか思えない。そう確信する人間が例えばスポーツ特にサッカーを多く見続けていると、「あぁこの人はそういった強い星の下に生まれてきたんだ」としか思えない事柄に良く出くわす。そしてそれで片づける事が「いたって自然」な事象が、結果として大一番を左右すらしてしまう。
そうなると結果を見る者としては、パッと見たときの、出くわしたときの、その時の直感だとか感覚だとかのある意味不確かなものも計算として組み込んでいかないとダメだよな、とはつくづく思う。

だって、実際にそういった物がどデカい結果を左右しているじゃないか。
この舞台、このシチュエーションで得点を決めたライアン・ギグスに、何も感じない人間は一体どれだけ存在してしまうのか?そしてそういった巡り合わせ、流れすらも操っているとしか思えない名将サー・アレックスの名将たる所以に何を感じるか?(もっと気にしてみれば、その点でのグラントの能力についても)

自分が監督能力に、そういった選手交代策、勝負師的なカンを高いレベルで常に求めている事もその延長に他ならない(昔で言えば、例えば倉又監督時代に栗澤を起用し無かった事を大々的に批評した件など)。また、「なるべくロジカル」な批評を目指したい当ブログ内でも往々にしてそんな感覚的なもの、特に「持って生まれた星の強さ」という不確かなパラメータで選手をチェックしたりしているのは、その「感覚を計算に置換」する事を目指している一環だと思っている。
「直感の7割は正しい」とは棋士羽生善治の言葉。実は強い力を持っている、そんな不確かなものを汲み取ったその眼は、あながち馬鹿に出来ないものであるとは言えないだろうか。
ユナイテッドのアウェーゴール裏を正面に作った表彰式の舞台、そしてゲームキャプテンのリオではなくギグスがカップを掲げた事、全てが清々しくて気持ちよかったです。今日のマンチェスターは「大騒ぎ」でしょうね。
で、シティは何をやっているんだ(笑)