愛するサッカーのために、落語を学び始める。

恐らく、最近は相当迷いながらの生活をしています。
物事に興味を持ち、思いを巡らしていくと必ずぶち当たる「自分が無知だ」という壁。そこから勉強というのは始まっていき、生涯延々と続いていくものなのでしょう。それを一言でひっくるめると「興味」と言えるわけでしょうが、しかし最近の自分は、その興味の向ける先があまりにも唐突でしかも自分のキャパ以上に無限に広がっていきそうで。ある種の恐怖すら感じているわけです。
サッカーを語るために、落語を勉強しなければと焦る人はそう居ない。しかし、本当にサッカーを語ると思うならば、落語は必要だというこの自らの直感は間違いないと確信しています。そのために、まずは立川談志の本を最近読んでいる。しかし読めば読むほどそれだけでは足りないと。まだ序章までしか読んでいないが、その段階で最低でも既に、今度は「忠臣蔵」を読まねば、八代目桂文楽の(さらに三遊亭円楽の)「厩火事」とはどんなものか聞いてみねば、ともう二つも課題が生まれてきてしまう。1つの課題を潰すごとに無限増殖していく新たな課題。その都度、壁にぶち当たる。
これはもう要するに、今までの勉強不精のツケをどばっと払っているというわけでございますが(←そらぁ口調まで変わるってなもんですよ)、それでも今後、一体自分の無知をどれだけ気付かせられればいいのか。だからか最近とうとう、ものすごいペースで本を読むという行為を始めた自分ですが、なるほど本を読むということ、本を読み「続けてしまう」ということはこういう事かと、これに小説が本格的に関わり始めたらいくら時間があっても足りないではないかとなるわけです。
モチロン勉強というのは本を読むだけではない。新しい人に出会い、お話を聞く機会を頂くと、それだけでもう刺激に満ちあふれる。今日なんかは、『某「サッカーを批評」し始めた方』とお話させてもらったが、発散される強烈な意志だとかカラーをフレーズに載せてビシバシに受けると、あぁ自分はまだこれが必要だと気付かされ、またしても課題の山はさらに高く積み上げられる。
そんな課題なんてものは、いわば「過去を汲み取り、自らを補完していく作業」に他ならないけど、だからといって過去ばかり見ているわけにもいかない。
今日電車に乗っている時に、隣の中学生らしき連中が話していたフレーズを聞いて愕然としました。
「あの頃は、上戸彩が流行ってた時代だからさぁ〜」
上戸彩の旬がとうに過ぎていること(そもそも上戸は「天下を取り損ねた」わけだが。)は言われないでも気付いていたが、それはあくまで自分の中でのみ結論付けていた話。けど、世間での彼女の旬は自分が思っていた以上のスピードでとうに過ぎていた。それはもう中学生にすら指摘されてしまうほどに。自分が思っていた以上に世間の流れるスピードが速いことに気付いたその時、強烈な不安に襲われる。足りない知識のみを補完する、過去を振り返ることのみに没頭していたら、現代にすら置いてかれてしまうと。激流の現代にしがみ続けなければならない。この苦労に、他の人たちはどうやって立ち向かっているのだ?

っていう話を友人にぶつけるわけですよ。落語を勉強しなければ。立川談志は凄いぞ!と。そうそうこの前の平山相太はさぁ、って話を続けると「MXTVに浸食されてますね」と言われました。至極まっとうな指摘だと思いました。水野キングダムの話をしてたら追い打ちだったな、話しなくて良かったですな。